1964年東京オリンピックの男子マラソン銅メダル円谷幸吉選手
円谷幸吉選手
円谷幸吉選手は福島県出身、中央大学経済学部(夜間)から陸上自衛隊に所属していました。
1964年東京オリンピックで男子マラソン銅メダルを獲得することになったのですが、もとからのマラソンランナーではなく、5000M、1万Mのトラック競技の選手でした。
トラックでのスピードに注目され、マラソンへの転向を勧められオリンピック前年に走ったマラソンで結果を残し、直前の選考会でオリンピック出場枠3枠の中の最後の一人として選考されたのです。
円谷幸吉選手のオリンピック男子マラソン選考の過程は、2020年東京オリンピックマラソン選考の3枠目の選考方法とオーバーラップしているように感じられます。
トラック種目でもオリンピック出場を決めていた円谷選手は、男子マラソン出場3選手の中では第三の男として フルマラソンでは注目されていませんでした。
トラック種目で入賞し、最終日の男子マラソンに臨んだところ日本人の二人の選手が先頭集団から遅れる中、円谷選手は先頭の選手を追って2番手につけていたのです。
裸足のアベベ選手
先頭の選手とは、その後マラソンの英雄としても語り継がれることとなった「裸足のアベベ」選手です。世界のオリンピックという大舞台で、東京の街中を一人の裸足のランナーが先頭で駆け抜けていく、そして次に日本人選手が先頭の選手追っていく、初めて見る衝撃的な光景です。
結果的には、円谷選手の後ろを走っていた選手に最後抜かされてしまい銅メダルとなりましたが、日本マラソン史上、初めてのメダル獲得。それも裸足のアベベ選手を追っていく姿から誰もが大きな感動をもらったのです。
円谷幸吉選手は1964年東京オリンピックで銅メダルをとったことにより、四年後のオリンピックでは金メダルを目指すことになります。
人々の記憶に深く刻み込まれた感動の走りをした円谷選手には。周囲の期待が大きく膨らんだのです。円谷選手本人も四年後は金メダルを取ろうと思い練習を 続けていきました。
円谷選手の不運
不運からの悲劇はここから始まったのです。元々の生真面目な性格からオーバーワークが原因で故障してしまいました。円谷選手は1964年東京オリンピック出場前から椎間板ヘルニアを患っていました。選考会からオリンピック本番には回復しましたが、その後の練習を積み重ねていくうちに持病の椎間板ヘルニアが再発したのです。
体の故障を抱え思うような結果が残せなかった円谷選手は、次のオリンピックに間に合わせるために
手術することを決断したのです。
腰の手術を行うことは、選手生命 だけでなく場合によっては日常生活にも影響してしまう大きな決断に踏み切ったのです。
手術はしましたが、手術後はかつての走りができなくなってしまったのです。
ここから先はとても悲しい悲劇のため本ブログではあえて触れませんので、お察しいただきたいと思います。
さらにとてもショッキングな出来事が続きます。
1964年東京オリンピック男子マラソンで優勝したマラソンの英雄「裸足のアベベ」選手が交通事故に遭ってしまったというニュースが入りました。
現在のパラリンピック
日本人のファンも多かったアベベ選手は「私はもう走ることを歩くこともできなくなってしまいました。そんな中で 戦っています」との内容のコメントを残されています。
アベベ選手はその後障害者スポーツ大会に出場し多くの方々を感動させたとのことです。
そしてその行動が現在のパラリンピックとして開催されているのです。
1964年東京オリンピック男子マラソンには、とても深いドラドが残されたのです。